『雪風の帰り道』







不快な音が聞こえる。不快な臭いがする。不快な感触が左手にある。
紅蓮と鮮血によって構成された紅の世界で、鉄錆を舌で転がしながら、そんな当たり前のことを考えた。
私は、ぽい、と左手の何かを投げる。
それはどさりと落ちて、うっ、という音を漏らした。
不快ではない音がした。
だから、私は音の元を消した。
ぐしゃり、ぐしゃり、ぐしゃり。
繰り返すこと3度、唐突に、私の真後ろから音が聞こえた。

「念入りだな。殲滅屋」

不快ではない音。
だから、消そうとした。
――けれど

「――どうだ?自分が斬られる感触は。
 早々味わえるものではないぞ、どうせなら愉しんでおけ」

不快ではない音が聞こえる。不快なにおチノニオイがする。
誰かがかはっ、とコエヲモラスコエヲモラス。
視界がクロトシロトアカトキイロトミドリトアカトアカトアカアカアカ……

脾腹に、鉛色の異物。それが最後の感触だった。
そして私は―――闇に、落ちた。

落ちる。落ちる。落ちる。
どこまでも落ちた。
落ちた。
堕ちた。
オチタ。
どこまでも、堕ち続ける。









そんな、嫌な夢を見た。

「……」

「あ、起きた」

頭の上から若い男の声。
私は無意識に声を出そうとして――当然のように、酷く咳き込んだ。

「目は見える?僕の言葉、聞こえる?声は…聞くだけ無駄か」

耳は正常だったが、視界は霞がかっていた。
舌を動かしてみると、血の味がした。さっきの咳で吐血したのかもしれない。
嗅覚は――駄目だった。

「…視覚はともかく、聴覚は大丈夫みたいだね」

我ながらカンペキな作業、と満足げに呟く青年(声で判断)
…どうせなら、視覚や嗅覚に関しても完璧にして欲しかったが、あの怪我から生還させただけでも十分に……ん?

「さ…ぎょ…?」

「あ、喋れたんだ。うん。作業。別に僕は治療してないよ。
 治療したのは僕が即興で作ったゴーレム」

魔術師だったのかと、私は少しだけ驚き。――直後、その言葉を疑った。
今までに何度か魔術師と会ったことがあるが、どれも頑固・傲慢・利己的・保守的。加えて閉鎖的な空間にいるためか陰気。はっきりいってあまり一緒にいたいタイプではない。
――が、目の前の自称魔術師はそのどちらのイメージとも違う。
言葉に表すのも難しいが、強いて近いものを挙げるとしたら、穏和・無邪気・マイペース・のんびり屋・人情家。魔術師というよりは、教会の神父に近い雰囲気を漂わせている。

「…どうかしたの?」

首を横に振ろうとして、自分の首が寝台に固定されていることに気付く。
――首もかなりの怪我を負っていたことを知って、改めて自分が生きていることに驚いた。

「――ああ。そうそう、酷い怪我だったんだよ、君。
 全身の骨が砕けていて首には穴が開いていて、内臓も骨と剣でズタズタ。
 流石の僕もビックリしちゃったよ」

はっはっは、などと能天気に笑う。
…何故だろうか。この魔術師が「ビックリする」姿がどうにも想像できない。
いやむしろ、口調だけで判断すれば嬉々としているようにも聞こえる。

「…で、これはマズイと直感して、実験室から試作段階のゴーレムを持ってき て、君の背骨に植えたんだ。それから、時間もなかったから首の穴は新鮮な 死体からちょっと拝借――あれ?どうしたの?」

――聞かなきゃ良かったと後悔しているのです。
心の中で呟きつつ、涙目と無言の圧力で訴えた。
それが功を奏したのか、魔術師はふむ、とだけ言って会話を打ち切った。

「――君は、何者なんだい?」

独り言のように――いや、私が問いかけに対して何も反応できない以上、それは独り言だったのだろうか――魔術師はそんなことを口走った。

「君の身体、多数の…それも、人間の血を被っていた。
 ――それでもって、この近くにある村にゴーレムを配置していたんだけど、
 先程からまるで無反応なんだ」

私は、黙ってそれを聞く。

「村といっても百人近くいた。戦闘用ではないにせよ、ゴーレムは頑丈に作っ てあった。――それが、たった数時間で壊滅していたんだ」

魔術師の声には、怖れも怒りもない。しかし、同時に哀れみも悲しみもない。
あるのは、純然たる好奇心だけ。
顔はよく見えないが、恐らく、魔術師の顔は微笑を浮かべているのだろう。

「確証はないけど、僕は君がやったんだと考えている。
 けれど、僕は君が誰なのかが分からない。
 ――元気になったら、教えてくれないかな?」

自分が何者なのか。
それは、単に職業や経歴のことを言っているのだろうか。
それとも、それら全てを踏まえて、自分という存在の概念のことを――。

「…やっぱり気になる?どうして僕が君の事を助けたか。
 ――どうして、今すぐにでも君のことを殺さないのか」

思考が凍る。
口調は先程と変わらない。あくまで穏やか。あくまで無感動。
なのに――その という言葉が、あまりにも重く脳裏に響いた。

「言っておくけど、僕はそんな慎重派じゃないし、博愛の徒でもない。
 と言っても、別に君を何かに利用しようと考えているわけでもない」

やる。
この男なら絶対にやれる。
躊躇も慈悲もなく、すべき時には必ず何かを、誰かを――。
穿つ
斬る
潰す
叩く
消す
燃やす
――殺す
その言葉が思い浮かんだ途端、悪寒が全身を駆け巡った。
今まで死を恐れなかったこの身が、初めて、それに屈服した。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
何故。どうして。今まで怖がったことなんて、一度も。今まで――。
今まで――今までって、何?
今までとは過去の集大成。自身を築いてきた足場。二度と戻れぬ帰り道。
それは、一体どんなものだったか。
――振り返る。そして、気付いた。
自分は――。自分の辿った道には――。
他の足跡など、たった一つさえなかったことに。
…それを悲しむと同時に、納得した。
当たり前の話だった。
瞬きするほどの短い間。一度だけでも。
隣にいて、自分を支えてくれた優しい魔術師が――優しいままであることを望んでいたから、その夢を打ち壊されたくなかったから――その言葉に怯えた。

「ころ…」

「うん?」

「ころ…す…です…か?」

自分でも情けないと思うような声で、魔術師に尋ねる。

「まさか。今のところ、僕が君を殺す理由はないよ」

あくまで無感動な声質のまま、魔術師はそう言ってくれた。

「……」

「ま、危険なヤツといっても、僕を殺そうとするまでは無害なわけだし。
 君は久しぶりのお客様だし。苦労して生き延びさせたわけだし。
 ――何より、楽しい一時を中断してまで君を殺すことに意味はないしね」

ぼやけた視界の中――笑顔を浮かべている魔術師の幻想を、視る。





『今日まで本当にお世話になりました。
 貴方に助けられた日のこと、今日までのことは決して忘れません。
 別れの挨拶もなく、逃げるように旅立つことをお許しください。
 またいつか会えますように。
                   〜優しい魔術師さんへ〜』

「…ふむ」

机の上にあった手紙と、開け放たれた扉を交互に見つめる。
そして改めて、手紙の最後の一行を見た。

「優しい魔術師、か。
 別に僕は、誰にでも無条件に優しいわけでもないんだけどな」

呟きながら、外に出た。
――彼女が訪れてから5ヶ月ほど。
寒空を仰ぐだけの季節は終わり、今は、命が芽吹き、花が咲き踊る季節。

「……」

目の前に広がる、若草色の大地の向こう。
ありえない、幻を視る。

「…いってらっしゃい」

いってきます、と彼女の代弁をするかのように、暖かな風が僕の頬を撫でた。








「魔術師」

大アルカナの一。
正位置では創造力・変化・好奇心・奇抜・開始を暗示。
逆位置では凡庸・無気力・詐欺・不信・悪知恵を暗示。