『one infinity』








いつからだっただろう

無機質な、見飽きた病院の白い壁

その片隅に、いつの間にか彼が立っていたのは

そして、私と会話をするようになったのは



いつものように、他愛のない会話の途中

唐突に、彼は告げた

――俺は、お前の死神だ。

別に、驚きはしなかった

始めて見たその日から、何となく、そんな予感はしていた

けれど、彼の次の言葉は予想外だった

――お前は3年後の今日か、あるいは2週間後に死ぬ。

――3年後ならばここで。2週間後ならばここではないどこかで。

――お前は……どちらを、選ぶ?










そこは、今の世界に相応しい無味乾燥した部屋だった。
所々ひび割れた、無機質な白い壁と、現実感のないタイルの床。
部屋には寝床が6つ。けれど、その寝床を使うのは、たった一人だけ。
その最後の一人も数分後にはいなくなってしまう。
けれど、部屋は何も変わらないのだろう。
いなくなっても、部屋はずっとここにある。寂れても。忘れられても。
けれど、目の前の少女は――

コンコン

「…どうぞ」

入ってきたのは、情けなさそうな中年の男と、神経質そうな中年の女。
どうやら、彼らが件の「唯一の血縁者」らしい。
…と言っても、目的は彼女の両親の遺産と、生命保険だけで、彼女自身には愛情の欠片すら抱いていないだろう。
事実、この病室に入ってきた回数は、これを合わせても十指に満たない。

「カホちゃん。もう、出かける準備は出来た?」

「…うん」

どこか嬉しそうな面持ちで、こくりと頷く。
しかし、中年の男は何を勘違いしたのか感慨深そうな顔で

「…愛着が沸くのも無理ないか。十年以上、ここで過ごしてたんだもんね」

愛着があるのか?と俺がカホの顔を見ると、カホは小さく首を横に振った。

「…早く、外を歩きたい……」

中年夫婦は、眉を潜めながら顔を見合わせた。
顔から判断するに、心中では、礼の一つも言えないなんて何て礼儀知らずな子だ、などと思っているのだろう。
彼女を十数年間、この狭い空間の中に閉じ込めていた事実を都合よく忘れて。

「…そうね。それじゃあユウキさん。そろそろ行きましょ。
 そうだ、カホちゃん。家に着いたら、まず何をしたい?」

「…わかんない」

「家についてからゆっくり考えればいいさ、それじゃ、行こう」

病室の扉が、閉じる。
…もう、ここにカホが戻ることもないだろう。
窮屈で、乾燥していて、けれど――果てしなく慈愛に満ちたこの世界に。





「何度やっても無駄だと思うがな」

一応、忠告を送る。

「…でも、あと1週間しかないんだから。
 …なんとしても、説得する」

が、案の定、彼女の決意は固く、諦めることはなかった。

「何一人でブツブツ言ってるの?」

「…叔母さん。私、旅行に行きたい」

「カホちゃん…。しつこいようだけど、あなたはまだ病み上がりなの。
 もうちょっと経って、お医者さんが大丈夫って言うまで待とうねって、一昨日に約束したばかりでしょ?」

口調こそ柔らかだが、やはりというかなんというか、イラついている雰囲気が傍から見ていても良く分かる。
しかし、カホはぐっと握りこぶしを握って

「うん…。でも、私はやっぱり今行きたい。
 私、何となく分かるの。私は、今は健康だけど、あと少しの命なんだって」

「…ああ、カホちゃん。そんなことないわよ。
 カホちゃんはすぐに健康になるからね。お医者さんも言ってたでしょ?
 病気は完治しました。これは奇跡です、って」

けれど、死神が確かに――とは言えない以上、言い返せる言葉はない。
カホは諦めて、部屋に戻った。

「はぁ…」

ぽふ、と音を立ててクッションにダイブする。
…それにしても、先程の女の、あの顔。
表面こそ笑顔だったが、その裏では死んでくれたらどんなに良いだろうと考えているのだろう。
…腹が立つことに、こいつの願いはあと1週間で成熟する。
そうなれば、こいつは上辺だけは多量の涙を流して「良い叔母さん」をせいぜい上手く演じることだろう。
そんなことを考えていたからだろうか、自室に戻ってからずっとカホが、少し寂しそうな目で俺を見上げていたのに今まで気付かなかった。

「…ま、いざとなったら最終日に金もって逃げればいいんだよ。
 死んだ後の悪名など何の意味もないし、第一、あれは元々お前の金だ。
 入院費やら何やらを抜いても、まだまだ釣銭が来る。
 お前が金を持っていくことは、別に理不尽なことではないだろう?」

「……」

カホは、首を横に振った。

「叔母さんたちに迷惑かけるから、か?
 …一度も見舞いに来ず、上辺だけの善意を見せて、あまつさえおまえが死ね ばよいと思っているこいつらの迷惑など、考える意味なんてあるのか?」

首を縦に振る。笑顔で。

「それでも――」





後5日に、なった。
彼は、何で私が旅行、しかもあんな場所にこだわるのかをしきりに聞いた。
けれど、私は一度も答えなかった。
…答えるのは、その場所に着いた時。そう、決めていたから。
だから、何としてもそこに行かなければならない。
だから、今日も今日とて無駄だと分かる努力をする。

「…叔父さん。叔母さん。私、一日だけでいいから旅行に行きたい」

「……」

「……」

最近では、二人ともその話題をあからさまに無視するようになっていた。
それでも、諦めるわけには行かない。

「お願い。たった一度だけでいいから…お金は、後でちゃんと返すから」

「…どうやって?」

もうすぐ死ぬ、と言った手前。働いて返すという嘘はつけない。
でも、だからといって保険金で返す。などと言うこともできない。
私が何も言えないでいると、横から叔父さんが

「…ヨシコ。いいんじゃないか?行かせてあげたって」

そう、助け舟を出してくれた。

「ユウキさん?あなた、今月の家計を分かってて言ってんの?
 余計な出費が増えちゃったせいで、大赤字なのよ?
 それとも何?この子の遊びのために絶食でもしてくれる?」

「こ、子供の前でそんなこと…」

「いいのよ!最近この子しつこいんだから!
 あなたもね、場を弁えなさいよ!あなたの入院費を払っていたのは誰!?
 その出費だけでも大変だったのに、あなたが家に来たからもう、こっちは大 変なんだからね!
 それなのに、旅行に行きたいなんて許されると思ってんの!?」

「……」

ぼやけた視界の片隅で、彼が酷く怒った顔をしていたのが分かった。

「泣いてないで何とか言いなさいよ!あんた、もう15歳でしょ!?
 いつまでもガキみたいにピーピー泣いてるんじゃないわよ!!」

「ヨシコ…」

「ちょっと黙ってなさいよ!あんたもあんたで、何が世間体よ、馬鹿みたい!
 世間体を気にしなきゃ、あんた外も歩けないの!?」

「そうは言うけどなぁ!俺だって…」

暗くなった視界。耳に入るのは罵声と怒鳴り声。
その中で、彼の声だけが優しく響いた。

「…カホ、部屋に戻れ。明日からこの話題は口にしないほうがいい」

こくり、と頷く。





「…いい加減、理解したか?
 説得は無駄だ。お前が金を持っていくのも当然のことだ。
 お前の命はあと2日だ。そして、お前は何としても行きたい所がある。
 最初から、何も迷う必要はなかったんだよ」

口調だけは辛辣に、けれど、悲しそうな顔で、彼はそう言ってくれた。
私は、迷った末にこくり、と頷く。

「…なら、善は急げだ。明け方に出れば、2日間の旅が楽しめる。
 今夜のうちに準備をしておけ」

「…準備?」

「金と身元の証明になるものさえあれば十分だ。
 …笑っても泣いても後2日。
 そこで死ぬのか、こっちに戻って来てから死ぬのかはお前に任せる」

…何処で死ぬのかは、彼から死期を告げられた日のうちに決めていた。
だから、私の準備は、お金と、身元の証明になるものと、地図と、着替えと、後一つ。

「……あの」

「うん?」

「叔父さんと叔母さんに、置手紙を書いちゃ駄目かな?」

言うと、彼はいつもの冷たい目でこちらを見ながら

「……ついでに呪いの言葉でも書いておけ」

そう言って、微笑んだ。

「あ。でも…」

「何だ?」

「恥ずかしいから、手紙は見ないでね」

私がちょっと強い調子でそう言うと、彼は不思議そうな顔をしながら

「ああ。なら、俺は部屋の外に出ている」

部屋の外へと出て行った。
…彼には悪いけれど、この手紙はあまり見られたくない。
私は、心の中で彼に謝ってから、文章を練り始めた。





「…わあ……」

駅から外に出た途端、彼女は小さくそう漏らした。
波の音と、潮の香り。そして、季節が季節だけにひたすらに寒い風。
…これが夏であったなら、ここも騒がしかったのだろうが、現在の季節は冬。
海の近くであるためか、非常に寒い。
が、当の彼女は始めて見る海に感動していて、寒さなど気にならないらしい。
まあ、寒さが気にならないのは俺も同じだが。

「…で、お前があれだけ行きたいって思ったのはここなのか?」

こくこく、と。心底嬉しそうに頷く。

「そうか。まあ、他人の趣味に何かをとやかく言う気はない。
 俺には海の何が良いのかなんて、理解できないけどな」

俺が皮肉めいた口調でそう言うと、彼女は――

「……行こ?」

「…ああ」

――この上なく、寂しそうな顔を浮かべた。





「…これで満足か?まだ1日残ってるわけなんだが」

散々あちらこちらを歩き回ったせいか、カホは少々へばっているようだった。
風呂にも入らず夕食も取らず、ただ、畳の上に寝そべっている。

「…うん。あと一つだけ」

「……。なあ、本当にこれだけでいいのか?
 お前、あれだけ楽しみにしておきながら、見歩くだけだったじゃないか。
 …無駄かもしれないが、買い物くらいしておきたいだろう?」

彼女は少し考え込んだ後、こくりと頷いて、言った。

「…でも、何を買えばいいのか分からないから」

「……そうか。では、後一つ。
 それが終わればお前は心残りがなくなるんだな?」

あえて、感情を殺した声で尋ねる。

「…うん」

「家に帰るのなら、早くしないとまずいぞ?
 おまえが死ぬのは明日の午後11時59分59秒。
 今から23時間と47分後だ。
 入れ違いの可能性も考えれば、早めに戻るのが――」

「ううん。私、ここで死ぬつもりだから」

きっぱりと。迷いも、後悔もない声で、そう言った。

「…お前とも長い付き合いだったが、明日で終わりか」

「…あなたは、終わったらどうするの?」

――ここに来て始めて、彼女は、自分が死んだ後の話を、始めた。

「…また、誰かの元に死を振りまくだけさ。
 そいつに、俺の姿が見えるようなら――まあ、やはりちょっかいをかけるん だろうな」

「…辛い?その仕事」

「辛いよ。辛いけど、好きでやっていることだ。
 だから、嫌いではないし、辞めたいと思ったこともない」

本心だった。
今まで、死ぬことが確定している――しかも、俺が命を絶つ相手。
そいつの生き様を見て、表情を知って、苦しみを知って。
もし、今回のように運が良ければ、最期まで、共に過ごす。

「――俺はこの仕事が、好きだ。
 色んな人生を知り、色んなヤツの最期を見ることができる。
 だから、俺は仕事がなくなるその日まで、辞めることなく続けるつもりだ」

「……今まで…」

「1億と3千9百人。人間なら、それくらいか」

それがショックだったのか、そう、とだけ言ったまま押し黙ってしまった。
カチコチと、容赦なく、時が攻め立てる。
時計の短い針が、3に差し掛かった頃。唐突に、彼女が言った。

「どうして、私に話かけたの?」

「…どうしてと言われても……今までもそうだったからな…。
 深い意味はない」

普通、死神は死の瞬間にだけ現れる。
姿を見られることで生じるトラブルを未然に防ぐため――というのは建前で、本当のところは、情を移したくないだけなのだと思う。
自分が刈り取らなければならない短い命。
蛍のように儚いソレが、懸命に輝く姿はこの上なく美しく、そして悲しい。
その輝きをもっと見たいと思うことは、当然のことだろう。
けれど、俺達は死神だ。
だから、誰の意思にも関係なく「理」という絶対の法の下、その輝きを、どこまでも冷酷に握り潰さなければならない。
けれど、俺はそれが納得できなかった。
――輝きを断つのが自分なのなら、その輝きを最期まで見守るのは、他ならぬ自分でなければならないのではないか――
そう考えたからこそ、俺はこうして、命の輝きを目に映している。
星の数に比肩し得るほどの、輝きを奪ってきた。
…実のところ、輝きを放つ命の形を、俺は良く覚えていない。
けれど――その輝きだけは、俺の胸の中で、今もなお色あせることなく――。

「…私のこと、覚えていてくれる?」

「…どうだろう。俺はこう見えて年寄りだからな。物覚えは悪いんだ」

「忘れてもいいから…言って」

出会った時のままの、純真な眼差しが俺を捕える。

「――俺はお前のことを、忘れない。
 その輝きを。過ごした時を。永遠に忘れないと、誓う」

だから、俺も純粋な気持ちのまま、思ったことを口にした。
それがよほど意外だったのだろう。
無表情な彼女にしては珍しいことに、目を大きく見開いていた。

「…そんなに意外か。言えと命じたのはお前だろう」

「…うん……。えへへ…ありがと」

「…ん」

――こうして、最後の夜は更けて行く。
どこまでも残酷に、そして確実に。朝へと向かって歩み始める。

「21時間と15分…」

起こさないように、小さな声で、呟いた。








「…ええ。はい、昨日から…。どこかに遊びに行ったと思ったんですが…。
 はい…。はい。よろしくお願いします」

言って、彼女の叔母は受話器を置いた。

「……」

こめかみに指を当てるその顔は、苦々しげに歪められている。
大方、脳内では理不尽だと思い込んでいる自分の運命と、身勝手だと決め付けている自分の姪に対しての呪いの言葉で埋め尽されているに違いない。

「…まあまあ、そうカリカリしなくても……」

後ろから、中年男があってもなくても同じような励ましの言葉をかける。

「…うるさい。黙ってて」

「すぐに帰ってくるよ。あの子、そんなことできそうにないし」

「…すぐとか後とかは問題じゃないの。家出されたってことが問題なのよ。
 分かる?これがもし、近所にしれたら大変なことになるわよ」

…世間体を気にしては外も歩けないのか、といっておきながらこの言葉。
まったくもって、身勝手にも程がある。
中年男は一瞬だけ動揺して、けれどこういう時こそ頼りになるところを見せようと無駄な努力を繰り返す。

「大丈夫だって。警察もそう大っぴらに動くことはないし。
 それに、先生だって自宅療養を推奨したんだろ?
 だったら、自宅療養が退屈で外に飛び出したって言えば済むじゃないか」

「…なんで、あたしたちに連絡の一つもよこさないのよ。
 せめて、メモの2〜3行くらい残しておけばいいのに」

自分の足で探してもいないくせに、そんなことを口走る。

「…残していなかったの?」

「残ってたら、とっくに捕まえに行ってるわよ」

そうは言うが、仮に行き先を告げたメモを残していたとしても、こいつらがそこまでの労力を消費してまで、彼女を追うことはしないだろう。

「……ヨシコ」

「何?」

「…あったよ。手紙」

「…どこに」

「あの子の机の上」

……ようやく見つけたか。
俺はゆっくりと腰を上げて、彼らの背後からその手紙を覗き見た。
安物の紙の上に、可愛らしい文字で、こう記されていた。

『おじさんとおばさんへ

 昨晩は私の我侭のせいで、喧嘩になってしまってすいませんでした。
 けれど私は、どうしても死ぬ前に、行きたいところがあったから…。
 本当に申し訳ないと思いますが、行くことに決めました。
 私はそこで死ぬつもりだから、ここに生きて戻ってくることはもうないと思 います。
 だから、ここに私が今まで叔父さんと叔母さんに言いたかったことを、書き 記します。

 おじさんへ。
 私が3歳くらいの時、叔父さんはお父さんにないしょで私を遊園地に連れて 行ってくれましたね。
 あの後、お父さんに怒られませんでしたか?心配です。
 もし怒られたなら、天国に行った時、お父さんを叱っておきます。
 私の友達は、おじさんのことを『流されるままの能無し』なんて言っていま したけど、私は、おじさんがとっても優しいことを知っています。
 たまにしか会えなかったけど、大好きです。さようなら。
 P.S.おばさんと仲良くね。それと、友達は口は悪いけど酷い人じゃない     から、許してあげてね。

 おばさんへ。
 お父さんとお父さんが死んだ時、周りの皆が私のことを「大丈夫?」とか
 「辛いよね」とか、友達に言わせれば「上辺だけの言葉」を沢山聞きました
 そんな中、おばさんは、いつまでも泣くんじゃない!と叱ってくれましたね
 私は、その言葉に勇気付けられて、今日まで生きてこれました。
 その後、おばさんが私のことを引き取ってくれると知って、とても嬉しかっ たです。
 これはおじさんもだけど、お仕事が忙しくてあまりお見舞いにこれなかった のが、ちょっとだけ残念でした。
 もっとおばさんと色んな事をお話したかったな。大好きです。さようなら。
 P.S.おじさんと仲良くね。
 
 果穂より』



「……」

絶句していた。
震えた手で手紙を持つ中年の女も、目を見開いている中年の男も。
そして、この俺も。
純粋。などという言葉だけでは済まされまい。
俺がずっとともに在った少女は――まさしく、奇跡そのものだったのだ。

「あ…あたし…あたしは…」

言って、泣き崩れる。
その瞳から流れるのは、懺悔か、後悔か、はたまた――底知れぬ、嘆きか。
中年の男も、身体を震わせ、ただただ呆然と立ち尽くしている。
その向こうの壁時計が――午後の8時を、告げていた。





暗く深い、夜の化身へと変質した、海を見る。見続ける。
――彼女が目覚めてから、今の今まで、ずっと。

「…残り10分だ。心残りは、まだ果たせないのか?」

「…うん」

心残りを果たせないまま、けれど何もしようとせずに。
――まるで、心残りをしたまま逝きたいとでも言うかのように。

「……そうか」

それが彼女の決定ならば、俺はそれに従うべきだろう。
彼女の人生の、最後の一幕だ。
たかだか1年ちょっと一緒にいただけの俺が、何かを言う資格はない。
それでも――

「……手紙、見たぞ」

「え…」

「死神だからな。遠くのものも見ることができるんだ。
 …随分とクサイ言葉の嵐だったな。笑いをこらえるのに、苦労したぞ」

「む…」

むくれる。カホのこういう表情を見るのも、随分と久々だ。
俺は笑いながら、言った。

「そうむくれるな。人間、生涯に一度くらいはクサイ台詞を吐くものだ。 
 …それに、お前の叔父と叔母は、手紙を読んで泣いていたぞ」

カホは、水平線へと視線を移してから、ポツリと言った。

「……そうなんだ。嫌われていたんじゃ、なかったんだ…」

嬉しそうな笑顔のままで。

「――カホ」

「…何?」

「後5分だ。心残りはあるか?」

やはり、こくりと頷いた。

「そうか。お前が心残りをしたままで逝くのならそれでも構わない。
 だけど…俺は、お前が笑顔で死ぬことを望んでいる。
 だから――死ぬ時は、今の下らない会話を思い出しながら――」

その先は告げず、カホの顔を見ることもなく。
ただ、暗き波間だけを静かに見つめる。

「……あのね」

「…ああ」

「死ぬのは、怖くないの。
 いや…怖いけど、自分がいなくなるのは、怖くない」

俺は黙ったまま、彼女の言葉に耳を傾ける。
残り4分。

「私は生まれた時から体が弱かったから。
 いつ死んでもおかしくないって言われ続けてたから。
 だから、いつでも死ぬ覚悟はできてた」

ふう、と息を吸い込んで、空を仰ぐ。

「ただ……その…あなたと別れるのが、怖かった。
 一緒にお話したり、遊んだり…とっても楽しかった。
 あなたはね…私の、たった一人のお友達なの」

…だからか。
だから、こいつは最初見た時に、寂しそうな顔をしていたのか。
だから、こいつはあんな下らない話で喜んでいたのか。
だから――こいつは、いつも、俺の傍を離れなかったのか。

「勝手だけど…やっぱり、私はあなたの隣で死にたい。
 …ごめんね、最期まで我侭で」

俺も、視線を彼女から空へと移す。
…残り2分。

「何、お前が我侭を言うのは珍しいし、何よりお前はあと少しで死ぬ身だ。
 我侭の一つや二つくらい、可能ならば聞き届けてやる」

「…ホント?」

「ああ。本当だ」

彼女は、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて、言った。

「それじゃあ、今のと合わせて三つだけ…いい?私の、最期の我侭」

「ああ。可能ならばな」

「えっと…それじゃあまず、昨日も言ったけど――。
 私のこと、忘れないでね。…ううん。
 忘れてもいいから、忘れないって、今ここで、もう一度だけ言って」

「…俺は、お前の事を永遠に忘れない。絶対に。
 たとえ、他の全てを忘れたとしても」

…残り1分

「……良かった」

安らかな微笑を浮かべながら、そう呟いた。

「それじゃあ…最期に、一つだけ」

「後1分だ。早くしろよ」

彼女は息を、すう、と大きく吸ってから、決意を秘めた、出会った時とと変わらぬ純真な瞳でこちらを見上げながら、静かに、言った。

「…私―――








「……」

「よう、お仕事お疲れさん」

変わり者で有名な友人の肩を、ポン、と叩く。

「ああ…」

「…どうした?元気がねえな」

いつもなら、どんなに辛い仕事でも、終わったら何事もなかったように振舞うはずだ。こうして、あからさまに悲しそうな雰囲気を出しているのを、俺は今までに見た事がなかった。

「…ちょいと海岸でな」

「海岸?どうしてまたそんな所に?」

確か前回の仕事は、病床に沈んでいる少女だったはずだ。
今回は病室だけだから退屈だと、任務前に彼がぼやいていたのを覚えている。

「…そういう話は海岸で、って考えてたんだろうな」

「どういう意味だ?」

「わからないならいい。
 …ま、気にしてても始まらないだろうし。
 次の任務が来たら、無理矢理にでも気を持ち直すさ」

カラカラと、いつものように快活に笑った。

「…そうか。でも、お前がそれだけ凹むんだからな。
 その仕事、お前はずっと忘れないんじゃねえか?」

「阿呆が。
 永遠を生きる俺達が、そんな一つの事象を覚え続けられるわけがねえだろ」

「ははは、違いねえ」

少し心配したが、この分なら大丈夫だろう。
俺は、友人に背を向け、次の任務先に向かって歩き出した。

「それでも……」

後ろから、友人の声が聞こえた。
その声は、どことなく悲しげで――

「それでも俺は、永遠にあの姿を覚えようとするんだろうな」

そして、誇り高かった。








「…良かった」

心の底から、そう呟いた。
たとえ嘘でも、昨晩と同じく、彼はどこまでも真剣に忘れない、と誓ってくれた。それだけで、十分だ。

「それじゃあ…最期に、一つだけ」

「後1分だ。早くしろよ」

「…返事を、してね」

「?それは――」

彼の言葉を遮って、悲しそうな瞳のまま、微笑を浮かべながら。
私は息をすう、と吸って気合を溜めてから、真っ直ぐに彼の目を見つめて、言った。

「…私、あなたのことが好きです。愛しています。
 出会った時から…ずっと。
 話しかけてくれて、嬉しかった。一緒に遊んでくれて、嬉しかった。
 一緒にいてくれて……私を助けてくれて、幸せをくれて…。
 ……この言葉を、あなたに伝えられて良かった」

心からの言葉。
彼は、瞑目したまま、鎌を振り上げた。
…タイムリミット。
これで、終わるんだ。
でも、後悔はない。やるべきことは全てやった。
これが運命で、しかもその運命の最期に在るのが彼ならば…恐れることなど、何もない。

「……すまん。カホ」

…断られると、思っていた。
だから、ショックはそれほど――

「最後の最後で、心残りを一つ増やす」

「え…」

――俺は、お前を永遠に――



鎌が、振り下ろされた。
……視界が、暗くなってゆく。私は、死んでいる――。
それでも私は、その言葉に対して、何かを返さないと、と。鈍くなった思考回路をフル活動させて考える。
けれど、鈍くなった思考ではろくな言葉が思いつかず、結局、時間をかけて思いついたのは、何の変哲も感動もない、陳腐な言葉だけだった。
…けれど、彼はそれでも構わない、と言うだろう。
なら、この陳腐な台詞こそが、私の最期を――。

「――ありがとう。さよなら、私の死神さん」

暗く冷たい闇の中、彼の鼓動を感じる。
私は彼の中で、深く――――――――――――――――



「…じゃあな、刹那の恋人。お前の死神で在れて、良かった」

その直前、そんな言葉が、聞こえた気がした。













死神

大アルカナの十三。
正位置では終末・崩壊・終止符・変化・結末を暗示。
逆位置では再生・復縁・再出発・やり直し・復活を暗示。