『還るべき場所』







「…ってわけで、ここに指を押し付けてくれれば契約が完了します」

言いつつ、綺麗な字で書かれた契約書なるものを渡してくる男。

「そ、そうなんですか…」

「…おやおや。ひょっとして怖がっていらっしゃいますか?」

…いや、どっちかって言うと、驚いているんだけど。
なんて心の声を察する事もなく、目の前の男は指を振りながら続ける。

「心配無用です。俗に言われている血とか貞操とか果ては肉体の一部なんてお ぞましいモノを頂く気などございません。そんな時代錯誤の馬鹿ではござい ません。私どもは流行にも応じて体制を変えているのです!
 例えば、最近では携帯のメールによる契約なども行っているのですが――」

ちらり、と視線を横に移す。

「…アレじゃあ、携帯なんて期待できそうにありませんしねぇ」

つられて見ると、そこには先程と変わらぬ格好で蹲る肉の塊が一つ。
近くには鉄パイプやら金属バットやら、果てはドラム缶やらが散乱している。
ところどころに撒き散らされている紅いモノは血だろうか。

「ところで…どうです?そろそろ納得は行きましたか?
 あそこにある肉塊はあなたの身体で、あなたはもう死んでいるってコトに」

笑顔を崩さないままに、男が告げる。

「…いや、なんと言うか……」

「ビミョー?」

「ああ…うん。そうだな」

俺がそう言うと、男は指を額に当てながら、困った顔を浮かべた。



――話は数時間前…いや、数分前か?…ともかく過去にさかのぼる。
その日、俺は念願の初給料を手に入れ、しかも大学時代の先輩の奢りで、無料で酒を散々飲ませてもらって有頂天だった。
で、俺はいつもの帰り道をいい気分で歩いていたんだ。
その途中、俺は明日の朝飯がないことに気付いて、近所にあるコンビニに寄って行った。
別に危険な場所じゃない。人目もあるし、何より近くに交番もあるから町内の中でもかなり安全な部類に入る店だ。俺も大学時代はここでバイトをしていたが、酔っ払いくらいしか見たことがない。
なのに、その日に限っては何故か。

「そこのオッサン、ちょっと俺らに付き合ってくんない?」

町内でも(悪い意味で)有名な数名の暴走族のメンバーがいた。
この後は、俺は暗闇に連れ込まれて給料を巻き上げられて泣き寝入りという、お決まりのパターンが待っているはずだった。
ところが、俺はその日酒を飲んでいたから気が大きくなっており、しかも大学時代には先輩から護身術なんてものを教わっていたものだから、この程度の不良ども、ボコボコにのしてやるなんて分不相応なコトを考えてしまった。
…結果は言わずもかな。俺はボコボコにされた挙句、兄貴と称される数人の男にリンチにあい――結局、哀れなことに死んでしまったらしい。
目の前の、自称悪魔が言うことには。



「なぁ…ホントにあんたは悪魔なのか?」

「ええ。別に鬼とか冥府の使いとか霊獣とか呼んでもそう遠くありませんが。
 あ、でも、死神とは呼ばないでくださいね。
 死神は、私どもとは次元の違う雲の上のお方ですから」

…そうなのか。てっきり死神は地獄の奥底とかにいると思っていたのだが。
雲の上にいたのか。

「まあ、あなたの思う『悪徳を蒔くモノ』とも違いますが。
 ――私どもは、魂と契約を結ぶコトを生業としているのです」

「それはさっき聞いた。魂と契約を結んで…」

「はい。死神の元へ導き、正しき「死」を頂戴するのを見届けるのです」

やはりニコニコと笑いながら悪魔。

「…そういや、料金とかはどうなってるんだ?
 俺、金は全部持ってかれたから、一線もないぞ?」

「歩合給ですから、ご安心ください。
 お客様には料金面では一切の負担をおかけしませんので」

「…まるでセールスマンだな」

「我々も人間と共に体制を変えていかなければならないのですよ。
 時代は変わる、というヤツです」

びしっ!と目前に指を突きつけられる。

「…と、失礼しました。
 ――ところで、そろそろ納得しましたか?」

「…納得はしないけど、理解はした」

「納得はできませんか…。あなたの死はあまりにも理不尽ですからねえ」

――言われて、俺の中で怒りの感情がふつふつと沸きあがってきた。
あいつら。あのクソガキども。
俺が何をしたと言うんだ。1ヶ月分の生活費を守ろうとして反撃した俺に非はない。第一、一対複数なんて卑怯ではないか。いくら酔っていたとはいえ、一対一なら俺にも勝算があった。
そもそも、兄貴とやらを呼んで始末をつけてもらうなんて情けない。お前達は赤ん坊か。その兄貴とやらも、調子付いてガキの後始末と称して日頃、社会から弾き物にされたことへの憂さ晴らしをしていただけではないか。大体、弾き物にされた事だって、元はと言えば自己責任で――。

「――ですが、まあ。死なんてそういうものですよ。諦めなさい」

「…何?」

こいつは 今 なんて 言った?

「別にあなただけが理不尽な死を味わったわけではありません。
 有名どころでは救世主。そうでなくてもこの世界に理不尽な死なんて山のよ うに溢れています。納得した上での死と同じように」

エラソウな顔で騙るな。
お前に何が分かる。第三者で、死ぬこともなくて、人の痛みも知らない。
お前が――!

「…殴っても無駄ですよ。私からあなたに触れることはできますが、あなたか ら私に触れることはできませんから」

拳は何も捕えることもないままに、虚しく空を切った。
俺は絶望のあまり立ち上がることもできず、そのまま項垂れていた。

「…気に障ったようですが、これは純然たる事実です。
 死んだのはあなただけではありません。
 中には、生きたまま野鳥に貪られて死んだモノや、家族を目の前で失った後 にじわじわと死んだモノもいるのです」

諭すように語りかける悪魔。

「確かにあなたは子孫を残すことなく死にましたが、あなたが与えた思い出や
 影響の類は、そう簡単には消えることはありません。
 …さあ、そろそろ立ち上がってください。
 このままではあなたの御家族や御友人の皆様方も、いつまでたっても先へ進 めません。…あなたが、誰よりも早く先へ進まないと」

…そうだ。そんなことは、当たり前だった。

「…そうだよな」

そうだよな、ともう一度呟いてから、手足に力を入れて立ち上がる。
俺がいたことは無意味ではなかった。
俺はいつまでも皆の中で行き続ける。
皆は、きっとこの悲しみを越えて前へと進むのだろう。
悲しみの中で死んで、そして再び生まれ変わって行くのだろう。
だから、おれもそろそろ立ち上がらないと。

「ありがとう。お前のおかげで納得がいった。
 心残りはあるけど、もう、行かなきゃな」

俺は、迷うことなく契約書に指を押した。

「…そうですか。では、早速向かいましょうか」

「ちょっと待ってくれ。最後に…」

俺の死体を、散乱した血を、森を、空を、空気を、大地を、世界を。
この目に焼き付けて。
俺のいた世界を、覚えておかないと。
たとえ、いつか忘れ去るのだとしても。

「…この世界ともお別れだな」

「いえいえ。そう遠くないうちに再会できますよ」

優しそうな顔を浮かべながら、悪魔は言った。

「…俺は、幽霊とは違うんだよな」

「もちろん。私が責任を持って、あなたをそんなものにはいたしません」

自らに言い聞かせるように言ってから、踵を返して歩み始める。

「…そっか」

言いながら、俺も悪魔の後を歩み始める。
振り向くこともなく、どこまでも歩み続ける。





「…ところで、私はなんと自称したか覚えていますか?」

死出の旅の途中、悪魔が唐突にそんなことを言った。
俺は不思議に思いつつ答える。

「ああ。悪魔だろ?」

「そうです。そして私は、あなたの思う『悪徳を蒔くモノ』とは違う。
 とも言いました。その理由をご存知ですか?」

やはりニコニコ笑顔のまま。
けれど、良く見てみるとその笑顔は――

「簡単ですよ。悪徳なんて蒔く必要もないんです。
 人間は好奇心旺盛ですから。一つの悪徳を見つけて、それを悪と認識しつつ も別の悪徳を探しちゃうんです」

「それが…?」

どうした、という言葉は喉で止まった。

「加えて、人間と言うものはひたすらに自己中心的ですから。
 何せ、自分達が全ての生命の頂点。万物の霊長だなんて思ってるんですから
 たかだか神の創作物。動いて喋るだけの土人形がですよ?
 全く、笑っちゃいますよね。愚かしいにも程がある」

呆然と、嘲笑を浮かべながら話し続ける『ソレ』を見る。

「神の叛逆者。全てを殺戮するもの。略奪者。悪霊の頭。糞山の王。
 驕る者。これ、全て人間の別称ですよ?
 …分かりますか?あなたの思う悪魔の定義に一番近いのが誰か」

「お、俺は…」

「違うとは言わせません。あなたも随分と好き勝手をなさった。
 あなたが死んだ後、どこに行くかは見るまでもないと思いますがね」

やはり笑顔を浮かべたまま、冷めた瞳で悪魔は告げる。

「また、助けてくれという懇願も無駄でしょうね。
 現在の人間界では法律優先ですから。
 昔と比べれば、何を思って法を犯したかなんてことは重要視されません。
 どんな理由で殺人を犯しても、殺人は罪である、とね。
 同様に、あなた方が贖いと称して善行と称する行動をしても、それは大して 重要視されずに、罪は罪として裁かれます。
 それが、現在の死の裁定なんです」

「だ、騙したな…!」

「言わなかっただけですよ。言う義務もありませんから、罪にもなりません」

「あ、あぁ…あ……」

「…言ったでしょう?我々も人間と共に体制を変えていかなければならないの です、と。…ところで、つきましたよ」

伏せていた顔を上げると――そこには巨大な穴だけが在った。

「死神の掌を歩いたあなたは、既に死を授けられています。
 後は、そのままどこかに運ばれるか。あるいは零れ落ちるか。
 あなたの場合は、予定通りに後者でしたが」

「いやだ…地獄は嫌だ……」

体が震える。まるで魔獣の口のような漆黒に恐怖する。
そうだ。俺はもう何度も、ここに来ている――!

「何を言うのです。あなたの故郷。
 万物の霊長たる人類の発祥の地でしょう?
 喜ぶことはあれ、恐れることなど何もないはずです。
 …今度こそ、そこで大人しくしていてくださいね」

心は嫌がっているのに。身体は震えているのに。
俺と穴の距離は、徐々に縮まって行った。

「貴様…!思い出したぞ。お前は…!!」

「そうですね。あなたを悪魔と称するならば、私は天使と称されるものです」

穴との距離が、零になる。

「!!!」

声すら覆い隠すほどの濃密な闇に、堕ちる。
果て無き闇の向こう側。懐かしい夜色の果て。
――俺は、懐かしいナニカをミた。







「…あれ……?俺は…?」

「…死んだのですよ」

「お前は…?」



――あなた方が、悪魔と呼ぶモノです。








「悪魔」

大アルカナの十五。
正位置では邪心・堕落・執着・悪循環・暗転を暗示。
逆位置では強情・恨み・意地・自己中心・悪意を暗示。