『ある春の日に・3――星空の下で――』







その少女が何と名乗ったのか。
今ではもう、思い出すことができない。
そも、名前で呼んだことなど一度足りとしてないのだから、仕方のないことなのかもしれないが。
だが、私が勝手に決めた呼び名を、少女は気に入っていたように見えた。

「それでいいですよ――」

少女は、出会った時からなぜか私の傍を離れようとはしなかった。
最初は私の命を狙っているのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。
なぜなら、少女もまた、命にはさほどの興味を示していなかったから。
では、何故自分と一緒にいるのか。
ある夜に、尋ねてみた。

「私は、誰かに愛されたいんだと思います」

「――そうか。俺もだ」

星空の下。俺はようやく気付いた。
幼い頃から憎まれ、蔑まれ、恐れられ、近しい人などおらず、生きるには事欠かないけれど、誰にも生きることを望まれていなかった。
だからこそ、せめて愛されようと思ったのだろう。
散々に何故愛されないのかを考えて、結局、未だに分からなかった。
外見は他の人間と変わらない。誰かを殺したこともなかった。そして不運なことに、自分は狂ってもいなかった。
だからその夜、もう一つの疑問を少女に尋ねてみた。
少女は悲しそうに笑いながら、言った。

「私とあなたは同じです」

言い聞かせるように。

「そして私は、愛されない理由を知っています」

俺に、そして恐らくは自分にも。

「でも、あなたはそれを知らないほうがいい」

何故――と、視線で問いかける。

「…知れば、あなたもこの苦しみを背負うことになるから。
 それだけは、嫌です」

こういう時の少女が頑固なのは、永年の付き合いで良く知っていた。
だから、少女から聞くのは諦めることにした。
教えてくれないのなら、やはり自分で考えるしかないな。
そう言うと、少女は微笑を返してくれた。

夜は、静かに更けて行く。







「…で、勇んで足を踏み出したまでは良かったんですが、足を滑らせて崖から 落ちてしまったんです。気付いた時には、もう夕方になっていたので、急い で帰らなければと森の中を彷徨っているうちに…」

「オレと出会った、と?」

皮肉気に笑うと、フォズも恥ずかしそうに、あはは、と乾いた笑いを返した。

「今日はもう遅いから動くことはできないが、明日で良ければ森の出口まで送 ろう。近くに村がある場所だったな?」

炎に薪を投げ込みながら、それが普通であることのように言う。

「…わかるんですか?」

「造作もないことだ。この森の近くにある村はいくつかあるが、崖の近くにあ り、かつ半日以内に行けるという条件を加えれば、一つしかない」

淡々と語るその様子に、フォズはただただ感心した。
相当、この森のことを良く知っているようである。

「…凄いですね」

「そうでもない。ずっとここで暮らしていれば、そんなことは知っていて当た り前のことだからな」

とは言うものの、その顔は明らかに嬉しそうだった。
その様はどう見ても普通の人間で、先程、魔物を自衛のためとはいえ、あそこまで無慈悲に惨殺した人間とは思えない。
フォズも、思わず笑顔になった。

「私の家…というのも変かもしれませんが、私が住んでいる所も、他の所から 来た人にはややこしいらしいですけど、私にとっては目を瞑ってもどこに何 があるのか分かるのと、同じですね」

「ふふ…オレがケセドの家に遊びに行ったのなら、きっとケセドと同じように 迷うのだろうな」

「ケセド?」

聞いたことのない単語である。

「深い意味はない。
 『お前』や『君』という呼び方は失礼だと、オレの師父が仰ってたからな。 ケセド、と呼ぶ事にした。名を知らぬ女性に使う、仮の名前らしい」

「あ…」

そう言えば、自己紹介がまだったとフォズはようやく思い出した。
本日は色々なことが立て続けに起こったから、すっかり忘れていたらしい。

「すみません。自己紹介がまだでしたね。私は…」

と、そこで考える。
今ここで会ったこの人は、自分が何者であるかをまるで知らない。
知らないからこそ、こうして気さくに付き合ってくれる。
もし、ここで自分の身分を明かせば、ひょっとしたら恐縮してしまうかもしれない。他人行儀になってしまうかもしれない。
…できるのなら、この人とはこの雰囲気のまま、お別れしたい。

「……フォズと申します」

「そうか、フォズ。いい名だな。…オレはグーレイグ」

ニコリ、と笑う。笑いながら言う。

「それでは、自己紹介も済んだ所で食事としようか」

言いながら、いつの間に用意したのか、串に刺さった肉を――。

「あの、グーレイグさん」

「なんだ?」

「その肉って…」

「ああ、見ただろ。さっき」

さっき、と言われて真っ先に思い出したのは――。

「ええと、ひょっとして先程の魔物ですか?」

「ああ。そのまま捨てるのも勿体無いからな。
 かなりの数がいたから、どれだけ食べてもいいぞ」

そういう問題ではない。

「お、美味しいんですか?」

もちろん、そういう問題でもない。

「ああ、美味いぞ。見かけと違って、トカゲみたいな味だった」

トカゲみたいな味と言われても、フォズに想像できるわけがない。
が、そこはあえて考えないことにした。
折角、貴重な食料を譲ってくれたのだ。
断るのは失礼であるし、また、体力をつけておかなければならない。
何より、興味があった。

「そうなんですか…楽しみですね」

数分後、彼女は自分とグーレイグの味覚の違いを思い知らされることになる。








「…フォズ様は未だお帰りになりませんか?」

「ええ、村に入ったという情報はいくつか入っていますが…」

「そこから先の足取りは分からない、と?」

「はい…」

答えるカシムの声は後悔に満ちていた。
あの時、自分がフォズ様の側を離れなければこんなことにはならなかった。
あの時、もっとしっかりと捜査をしておけば見つかっていたかもしれない。
今は後悔するよりもやるべきことがある。それを頭では分かっていても、そんなことばかり考えてしまう。

「…誘拐の可能性もありますね。その村の近隣に住む、危険人物の調査は?」

「現在行っています…が、フォズ様の名を出すわけにも行かないので、協力を 仰ぐのは難しいかと…」

ふむ、と呟いて、再び思考を繰り広げる神官長。
やはり彼は、こんな時でも冷静だった。

「……」

そう、冷静だった。冷静すぎるような気がする。
自分も、永年の経験で動揺を表に出さない方法は熟知しているが、それでも未だ完全には消せない時もある。例えば今のような、突発的な事態。
しかしこの男は、いつもと何ら変わりない。
もしや、この男が…?
そんなことをカシムが考えていた時、不意に神官長が顔を上げる。

「カシム。最新の情報が聞けそうですよ」

見ると、兵士が一人、こちらに向かって来ている。

「報告します!」

「状況に変化は?」

僅かな期待を込めて尋ねる。

「フォズ様は未だ行方不明のままです!
 しかし、村人から、子供達と一緒に森に入ったという情報がありました!」

「森…?」

「はい。更に件の子供達に確認をとりました所、森の中で遊んでいるうちにい なくなったそうです」

神官長を見る。
やはり、表情は変わらない。

「捜索隊の半数を森に送れ。残りの半数は引き続き情報収集に努めろ」

「了解!」

言うや否や、再び暗闇へと駆け出していく伝令。
それを見送るカシムの背に、神官長が声をかける。

「…半数とは、少ないのではありませんか?」

振り返る。良く見ると、表情に疑惑の念が表れている。

「情報の過信は禁物です。まだ、森を抜け出した後に行方不明になった可能性 が残っています」

それに、この情報が罠である可能性も。と、カシムは心の中で呟き、再び神官長の反応を見る。
これが予想外であるのなら、何かしら反論を言うはず。
そこに隙が見られれば――

「なるほど。確かにそうですね」

が、神官長は納得したように呟くだけだった。
――敵だとしたら厄介な相手だな。
カシムは心の中で呟き、気を引き締めた。
――少なくともこの男の前では、僅かな隙すら許されまい。

「…神官長は、これからどうしますか?」

「私が出ても、足手まといになるだけでしょうし…何より、周囲がそれを許さ ないでしょうから、ここにいますよ」

つまり、敵だと仮定しても、とりあえず表立って動く気はないということか。
――カシムの思考は続く。
…では、その理由は何だろうか。
言ったとおりのことが理由なのか、それとも、他の目的――例えば俺を見張ることが目的なのか。
後者だとしたら、まずい。
最悪の場合、捜索部隊の全員がこの男に抱き込まれていて、この神殿内でフォズ様の味方は俺だけ――いや、俺とあの女神官だけということになる。
仮に他に味方がいたとしても、神官長の権限を使えばこの神殿に留まらせることなど、容易だろう。そう、親衛隊長である俺を除いては。

「…神官長。一つ良いでしょうか?」

「はい、どうぞ」

カシムの喉が、緊張のためにごくりと鳴る。

「…フォズ様は、森にいらっしゃるとお考えですか?」

神官長は、一瞬だけ驚きの表情を浮かべ――すぐに、元の表情に戻す。

「…どういう意味ですか?」

「そのままの意味です」

そのままの体勢で、しばし睨み合う。
情報を操作できる可能性があるのは、神官長と先程の伝令だけ。
が、伝令が敵の一味だとしたら、未だに誘拐犯からの連絡が来ないのは妙だ。明日になれば嫌でも大騒ぎになってしまうから、静かにさせるためにさっさと連絡をして、口止めをかけるのがもっとも効率的である。
伝令まで抱きこむような犯人が、まだ連絡をしない理由はあるまい。
よって、情報操作を可能とし、かつその理由があるのは神官長のみ。
その理由とは、森に誘き寄せることに他ならない。
目的は、恐らくは捜査の撹乱。が、この神官長のこと。
本当にフォズ大神官が森にいて、かつおびき寄せているという可能性もある。
その場合、森には何かがあるのかもしれないが――その時はその時。
どちらにしても自分がフォズ大神官を救出するためにはまず、森か、それ以外の場所にいるのかを知らなければならない。それは、仮に自分の勘繰りすぎたとしても同じこと。
故に、カシムはこの質問をした。
カシムが疑っているということを示せば、神官長は彼を消そうとするだろう。
だとしたら、彼がこの質問に答えるその場所は、彼を消せるだけの戦力が集う場所――フォズ大神官のいる所である可能性が高い。

「私は、森にいると思います」

神官長は、静かに告げた。

「カシム。あなたが何を考えているのかは知りませんが――くれぐれも、無茶 だけはしないように」

「はい」

真摯な顔で、カシムは嘘をついた。







「…寒いのか?」

「はい、少し…」

家の中と違って野外、特に森の夜は冷える。
屋外にいることの少ないフォズが震えるのも、無理はなかった。

「これで我慢してくれ」

言いながら、薄い毛布をフォズに投げられる。

「グーレイグさんは…」

「秋までは必要ない」

事実、先程まで毛布はかけていなかったから、やせ我慢ではないだろう。
フォズは感謝しつつ、毛布に包まった。
毛布は薄いながらも保温性に優れているらしく、体の震えはすぐに止まった。

「……」

木々の間から、空を見上げる。
雲一つない満面の星空。中心には半分だけの月。
寝る前に窓の外から見るものとは、少しだけ違う夜空。

「綺麗ですね」

「何がだ?」

不思議そうに、グーレイグ。

「空ですよ。窓から見た時と、全く違います」

「…見慣れているから、今は特に何も思わないが…。
 そうだな、オレも初めて森から星空を見たときは、そう思った」

懐かしむような、哀しむような、微妙な顔。
フォズは、そこでふと思った。
この人は、どうしてこの場所にいるのだろう――と。

「あの、グーレイグさん」

「……」

しかし、呼びかけられた当の本人は、夜空を見上げたまま動かない。

「グーレイグさん?」

「!…ああ、悪い。少し考え事をしていた」

「考え事…ですか?」

ああ、と一つ頷いて、

「…昔にも、オレはこうやってある人と星空を見ていたことがある」

再び、あの微妙な表情を浮かべた。

「その時、オレは一つの疑問を解決した。
 けれど、同時に今も解けない疑問を抱えてしまった。
 …その答えが何なのか。それを考えていた」

「迷惑でなければ、解決するお手伝いをしましょうか?」

「いや」

首を横に振る。

「オレの力で解きたい。解かなくちゃならない。
 そうしなければ…意味がない」

悲壮。決意。そして希望。
その全てが込められた言葉。

「…ところでフォズ、何の用だったんだ?」

「…あの、大した用ではないんです。ちょっと気になっただけなんです。
 ――どうしてグーレイグさんは、この森にいるのかな、って」

ちょっとだけ、驚いたような表情。
それを笑みで殺し、言った。

「…約束したからな」

「どなたとの?」

「さっき言った人だ。…もう、いないけどな」

いない、というのは、この森か――それとも、この世か。

「オレは…あの人のために、ここにいる。
 あの人との約束のために、あの人の思い出の残るこの森にいる。
 …他に行く場所がないから、ってのもあるけど」

何でもないことのように笑う。それが、なぜかフォズには悲しく思えて――

「あの、でしたら」

「ん?」

「…私のところに来ませんか?皆は私が何とか納得させますから。
 グーレイグさんは強いから、兵士とか」

だから、こんな突拍子もないことを言ってしまった。

「…言っただろ?他に行く場所がないって。
 他に行く場所がないってことは、どこにも行く気はないってことだ。
 ――オレは、この森のことを気に入っているから」

からからと、気持ちの良い笑い。これでフォズは、反論の言葉を失った。
――それでも。
それでも、何かしら恩返しをしたい。
誰もいないこの森を出る気のないこの人に対する、恩返し――

「あの」

「どうした?」

「でしたら、たまにこの森に遊びに来ていいですか?
 いつも行けるとは限りませんけど」

フォズが、そう言った瞬間。

「ああ、それはいいな――」

――グーレイグは、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「…でも、毎日来れないなら、オレはどうやってフォズと会えば良いんだ?」

「あ…それもそうですね」

場所は決められるとしても、そこに毎日行ってもらうわけにも――

「…そうだ。いい待ち合わせ場所がある」

「え?」

「オレは大抵はそこにいるから、そこに行けば会える。
 ――今日はたまたま、散歩している途中に魔物に襲われたけどな」

「いいですね、どこにあるんですか」

「明日、フォズを送る時に教えるよ」

「お願いします…」

ふわぁ、とフォズは大きな欠伸をもらした。
何だかんだで疲れていたのだろう、気付けば瞼も重くなっている。

「…ま、今日はもう寝な」

「はい…。お休みなさい」

「…ああ、お休み。フォズ」

――夜は、静かに更けて往く――



to be continued 「JUDGEMENT」








「星」

大アルカナの十七。
正位置では希望・期待・将来・可能性・明るい兆しを暗示。
逆位置では不安・過信・悲観的・考えすぎ・自己完結を暗示。